out of control  

  


   8

 山の稜線の向こうから昇った太陽の光が広がって行く。
 この村で一番高い教会の屋根に座って、俺は遅い冬の夜明けを眺めていた。
 俺も鳥翼族だから朝は早い方だが、それでも夜明け前に起き出すなんてずいぶん久しぶりだ。
 もちろん、必要な分は寝たぜ? これでも鷹の戦士だからな。気分的にいつものようにぐっすりと眠れなかっただけの話だった。

「………参ったな」

 うっかり口から漏れたのは、今朝から三回目のため息だ。朝日に照らされた白い息が丸く消える。
 こんなところをヤナフ辺りに見られたら大笑いされるな。いや、理由がばれたら殴られるか、秘蔵の酒を持ち出して飲み会を装った尋問のどっちかか。ウルキは俺が煮詰まるまで黙って放って置いてくれるが、ヤナフはとことんまで俺で遊ぼうとするんだよ。
 ……早いとこ冷静にならなけりゃいけねえな。
 怪物騒動のことじゃねえ。俺のため息の原因は、ネサラだ。
 いや、あいつが悪いわけじゃねえ。正確には、あいつに対して覚えた俺の衝動…だな。
 ざまあねえよ。セリノスを出る時にゃ下らねえと笑い飛ばしていた話が、事実になりかけちまってる。
 この衝動自体は悪いもんじゃないはずなんだ。昔ならいざ知らず、お互い大人なんだぜ? それなのに、なぜかその感覚が不埒だと感じた理由は、ネサラから感じるやけに純粋なウブさ加減だった。
 なんて言うんだろうな。まだ発情期を知らねえガキに触っちまったような……。
 もちろん、そんなはずねえ。あいつの歳なら、いくら遅くても十数年前には迎えてる。
 それに、昨夜成り行きで押し倒した時には確かに欲情の匂いがした。普通、ああなったらそのままなだれ込むもんなんだがなあ。
 勃った状態で引いた俺の理性も褒めたいとこだが、それより欲情に浚われずにおとなしく寝られたあいつの方が凄えよ。
 結局ガキのような口づけだけで解放したが、普通に「じゃあ、おやすみ」だからな。
 きっかけは、ベオクの女に誘われたことだ。断る口実に男のつがいがいるってのは大きい。
 それからなりそこないの騒動があって、決着をつけて……。
 惨い死に様だ。ああして弔うことしかできなかったが、胸に残るどうしようもねえざらつきを、ネサラが汲み取った。
 ここがセリノスならな……。
 何人か馴染みの女がいるし、俺もネサラの肌を乞うような真似はしなかっただろう。
 しかも間が悪いことに、昨夜のことであいつが嫌がってるのは上辺だけだってのがはっきりわかっちまったしな。
 あー…いや、ちがうか。本人は一応本気で嫌がってるんだよな。ただ先に躰が俺を受け入れちまってるだけで。
 もちろん、今が発情期じゃないからってのはあるだろう。だが、一度きっかけがあったら発情期に入るのはすぐだ。
 そうなったら俺の理性は笑えるぐらいに脆い。こんな風に二人きりでいたら、まあ確実にやっちまうな。
 いっそ、互いの周期が合えばいいんだが。
 セリノスでのことも終わってねえのに当たり前にそう考えた自分に呆れて、俺は淡く青を帯び始めた空を仰いで尖った屋根に頭を預けた。

「ああ、寒い寒い。……おや、お早いですねえ!」
「あ? ああ、なんだ。神父か」
「おはようございます。昨夜は無事に帰れたようで良かった」
「おはようさん。暗いからか? ネサラも松明を借りてたし、かがり火のおかげで場所もわかりやすかった。心配ありがとうよ」

 とりあえず、いつまでもこんなとこにいたってしょうがねえ。
 そう思って立ち上がったところで教会から出てきたのは、昨夜死んだ虎の弔いに来てくれた中年の神父だった。

「屋根から物音が聞こえたので、もしかしたらと思ったんですよ。ずいぶん早いんですね」
「ちょっと早く目が覚めちまったのさ。悪かった。起こしたんじゃねえか?」
「いえいえ。いつも起きる時間ですからお気になさらず。カラスのお方はまだお休みで?」
「ああ。だが、もうすぐ起きる時間になるがな」
「それはいけない。目が覚めて一人では心配になりますよ」

 答えながら下りると、神父は両開きの厚い扉に手を掛けて笑う。聖職者ってのはみんな似た雰囲気になるのか、どことなくグレイル傭兵団にいるウルキのダチの杖使いを思い出した。

「心配か」
「ええ。だってつがいの相手なのでしょう? つがいなら朝はいっしょに迎えたいものです。旅先ならなおさらね」

 そう言って微笑んだ神父を手伝って重い扉を開くと、俺は「それもそうだな」と答えて宿に戻ることにした。
 いつまでもこんなとこでぼんやりしていてもしょうがねえからな。

「じゃあ、またな」
「はい。お気をつけて」

 宿に戻ってそっと窓を開けると、冷たい風に翻ったカーテンの向こうに見えたネサラはまだ眠っていた。
 よしよし、起こさなかったなら良かったぜ。
 音を立てずに中に入って窓を閉める。カーテンは顔に光がかからねえ程度にしてベッドに腰を下ろすと、俺はひんやりとしたネサラの髪に触れた。
 そういや、クリミアの道化文官はこいつの髪を「瑠璃のような」と例えていたな。魔除けの石か……。確かに、そんな色だ。
 滑らかな髪は艶があって、思いのほかしっかりとした感触がある。リュシオンやリアーネの髪も艶があるが絹の糸のように細いから、まったく印象が違うのが面白い。
 本当に鴉ってのは、なにかと俺たち鷹と鷺の間なんだな。
 たとえば腕力もそうだし、魔力の強さ、容姿もそうだ。気性は……一番繊細だな。
 鷺ってのはか弱いばかりに見られがちだし、事実悲しみで死ぬことさえあるが、それだけじゃない。他人の心を読める分、その思いに傷つかないしたたかさも兼ね備えてると俺は思う。
 鴉の連中は違うな。鷹と鴉が親しくするうちに部下からよく聞くようになったのが、鴉には口にしないまでもわかっていて当たり前である決まりごとが、とても多いということだ。
 鷹は良いことも悪いこともはっきりと言う。相手に察してもらおうとは思わない。
 まあ、それにも範囲があるが……鴉ほど複雑じゃねえな。
 この辺りをどうすり合わせしていくかが、昔は失敗に終わった種族統合の課題になるんだろう。
 最初は面倒くせえな。嫌なら嫌って言えばいいだろうにと内心思ってたんだが、こうしてネサラといっしょにいて納得した部分もある。
 造作だけじゃねえ。いろいろと違うからこそ面白いし、お互いに求められる思いやりってのがあるんだな。
 王のくせしてこんなこと今さらわかったなんて言ったら、またネサラに皮肉を言われるだけだろうから言わねえけどよ。

「……ん……」

 ガキのころのように落ち着きのない前髪をかき上げるように撫でていたら、ネサラが小さく身じろぎした。
 起きたのかと思ったが、まだだな。あれだけ人の気配に聡いのに、俺がいても熟睡してるってのはうれしいもんだ。
 滑らかな頬を撫でてかすかに開いた唇に触れると、ふと悪戯心がわく。
 こんな風にちらっと見える歯の白さってのは、どうもそそるものがあるんだよな。
 大体、昨夜の今朝だろ? こんな無防備な寝顔を見せられてむらむらするなっつーのは無理がある。
 ただ、びっくりして飛び起きたりはさせたくねえ。そんなことになったら絶対に疾風の刃で刻まれるからな。
 ささいな悪戯で済む範囲だ。
 前髪の生え際に口づけて細い髪をそろりと舐めると、ぴくりとネサラの身体が震える。
 そのまま唇を頬に滑らせて頭を抱いた手で耳に触れたら、冷たかった耳が少しずつ熱を持ってきた。
 細い眉が寄って、鼻から漏れた息が色っぽい。
 やべえな。なにが口づけだけなら平気そうだよ。なにもかも平気じゃねえか。
 最後に唇を奪おうとしたところで、またべち、と俺の口が塞がれた。唇じゃねえ。ネサラの手のひらだ。

「なんのつもりだ…!?」

 びっくりして薄い手のひらに押し上げられるまま顔を離すと、怒り心頭といった様子で目を覚ましたネサラがいた。

「いやー、よく寝てたからついな」
「あんたは部下がよく寝てたら寝込みを襲うのか!?」
「相手は選ぶさ。俺もおまえ相手にこんなことをする日が来るとは思ってなかったが、したくなったんだからしょうがねえだろ?」
「ふざけるなッ!」

 ははは、怒ってるな。
 やっぱり感情を殺して従われるより、この方がいいぜ。
 投げつけられた枕を受け止めると、ネサラは忌々しそうに前髪をかき上げて脇の水差しから水を汲んだ。

「しかし、参ったよな」

 珍しく乱暴な仕草でグラスを取ったネサラの長い後ろ髪をもて遊びつつ言うと、水を飲みながら切れ長の視線をこちらに向ける。

「だから、セリノスの噂の件だ。晴れて事実になっちまったわけだが、合意の上なんだからしょうがねえよな?」
「!!」

 今度は盛大にむせた。

「おいおい、大丈夫か?」

 手ぬぐいを渡して痩せた背中を叩いてやると、しばらくしてどうにか落ち着いたネサラが深い息をついて俺の手を払う。

「その件につきましては、いつ、どこで俺があんたに合意したのか、聞かせてもらう権利は当然あるんでしょうね? 鳥翼王」

 あげく背を向けたまま氷のような声で言われて、俺はにやりと笑った。
 こいつは堪らんだろうが、俺はこんな風に言い合いできるのが楽しい。我ながらどうしようもねえな。

「おう、あるとも。昨夜もそうだったろ? おまえ、嫌がってなかったもんな」
「……あれは、あんたが甘えてくるからだ」

 口調はいつもの通りなのに、もたもたと髪をまとめる手つきが怪しい。強引に手伝っていつもより高い位置で結んでやると、思った通り、耳だけじゃなく項までしっかりと赤くなっていた。

「でも、許したよな?」
「合意はしていない。俺はなにも答えてないからな」
「言わないってのは合意だぜ?」
「それはあんたたちの言い分だ。言っておくが、そんな無神経なままだといつまでも――!」

 辛抱しきれずに振り返った躰をさらって唇を奪うと、開いたままの口ごと強張りやがった。
 本当はこれ幸いと舌を絡めた口づけも楽しみたかったんだが、そこは辛抱だ。今舐めると噛み切られそうだし、馴れてねえのか、昨夜も自分から応える様子がなかったからな。

「ん…!?」
「じっとしてろ。乱暴にゃしねえ」
「だから、ふざけるな…!」
「ふざけてねえ」

 なんとか俺を引き剥がそうとする腕の抵抗を封じて腰と後頭部を抱くと、俺はきつく睨みつけてくる切れ長の目の瞼と繊細な鼻梁、最後に滅多に甘い微笑みを見せねえ薄い唇に口づけた。
 抵抗は長くねえ。後頭部を抱いた手の指で髪の中を撫でると腕の中のネサラがわなないて、だんだんと力が抜けてくる。
 鼻に感じるのは、涼やかでどこか森の気配のするネサラの匂いと、少しずつそこに加わって立ち上るべつの匂いだ。ユクの花に似たその匂いは、ネサラの欲情の証だった。俺の鼻にはそれこそ滴る蜜のように甘く感じて、文字通り喰っちまいたくなる。
 堪えきれずに柔らかい唇を舐めると、腕の中の躰がまた震えた。

「は…ぁ」

 息継ぎが下手だからな。少し離すと艶の乗ったため息が零れる。
 もう一度口づけても、抵抗はなかった。
 それなのにここまで来て誘っても舌で応えねえってのは、こいつの理性は鉄かなんかでできてんのか? 鉄でも錆びりゃ脆いもんだがなあ。
 慣れた風でもねえし、そう経験があるわけじゃないのはわかるが、まさかまだ女を知らねえってことはないだろうし。
 内心で首をかしげながらもう少し深く舐めても、竦みはしたが歯を食いしばる気配はない。
 ゆるく開いたままの唇に気を良くした俺は、下唇の向こうに滲んだネサラの唾液を掬い取るように粘膜を舐めた。

「!」

 そのとたん、魚のようにネサラがはねる。新鮮な反応だな。
 下唇を軽く噛んで並びの良い歯を舌で撫でると、面白いぐらいネサラが抵抗しだした。
 もしかして、あれか。これ以上やったら抑えが利かねえってことか?
 朝も早いうちで、腹が減ってる。先におまえを喰いたいなんて言ったら、刻まれるだけじゃすまねえかもな。
 そんなことを思いながらしばらくネサラの粘膜の浅い部分を味わっていたら、急に胸を叩かれて俺はびっくりして離れた。

「あ、あぁ悪い。大丈夫か?」

 正直残念だが、口元を押さえたネサラが息を乱して逃げようとするものだから困った。
 なにも逃げなくてもいいだろ? まだ寝台に押し倒してもねえぞ。

「どうした?」
「離せ…!」

 ああ畜生、こんなにいい匂いをさせてるくせに逃げるか?
 そう思ったんだが、必死に俺を押しのけようとする姿がなんだかかわいそうになって少し身を引くと、ネサラはあわてて離れて顔を背けたまま何回も口元を拭いている。

「おいおい、そんなに拭いたら擦り切れちまうだろ」

 しょうがねえな。
 だが、グラスに水を汲んで渡そうとしたところで気がついた。ネサラの目尻が濡れていることに。

「ネサラ?」

 驚いたさ。発情したてのガキじゃあるまいし、それが感じて思わず浮かんだ涙ってのとは違うことぐらいわかるからな。
 あわてて肩を抱くと全身で後ずさられて、俺の方が固まった。
 本気で嫌なら、匂いでわかる。それを知ってるからやっちまったが、不味かったらしいな。

「その、悪かった。あー…泣かせるつもりはなかったんだ」
「うるさい。泣いてない」

 これは俺が悪い。
 正直に頭を下げて詫びると、ネサラは浮かんだ涙をごまかすように何度か瞬きをして、きつい視線をそらす。
 嘘をつけよ。鼻の頭だって赤いじゃねえか。
 意地っ張りなこいつのことだ。いっそ泣かせて楽にしてやりてえと思ったが、ここでそんな風に追い込んだらもう気安く言い合うこともできなくなるかも知れねえ。
 せっかく打ち解けてきてるんだ。それは避けたい。

「わかった。なあ、こっちを見てくれねえか?」
「…………」
「いい匂いがしてきた。今朝の朝飯も美味そうだ。いっしょに食おう。そうしたら俺も少しは落ち着く」
「少しなのか?」

 そらされたままの視線が震えたままなのに気づいておどけると、かすれた声で言い返された。

「いや、物凄く落ち着く、な。うん」
「…………」
「もう一度謝る。悪かった」

 今触ったら嫌がるだろうな。そうは思ったが、こんな風になったネサラを無視することはできなかった。
 そっと背中を撫でると、案の定強張ったが、すぐに落ち着いた。プライドだな。逃げずに踏みとどまって唇を引き結ぶ。

「俺もガキじゃない。だから、謝らなくてもいい」
「いや、ガキも大人も関係ねえよ。こんなことを無理強いするのは最悪だ。だから謝らせてくれ」
「いらん。俺はあんたに逆らえない。だから、謝らなくてもいい。あんたがどうしても望むなら俺は」
「―――ネサラ、俺を怒らせてえのか?」

 低い、恫喝するような声になっちまったが、しょうがねえ。
 俺の怒りが伝わったんだろう。ネサラから立ち上っていた甘やかな匂いがピタリと止まる。
 酷く緊張した、でも頑なな横顔に、俺は深いため息をつきかけて堪えた。ここでそんなもんついたら、女が思い通りに応じねえ苛立ちをぶつける野郎のようだからな。
 もちろん俺の場合は意味合いが違う。
 お互いに居心地の悪い沈黙が降りた。
 ネサラの目にうっすらと浮かんだ涙は引かないままだ。たぶん今も泣きそうになってるんだろう。
 ……化身の力だって戻っちゃいない。さぞ不安だろうに、本当にかわいそうなことをしちまった。
 えーと……とりあえず、あれだ。どうしたもんかな?
 思えば今まで何人かの女と過ごしたが、こんな場面で本気で泣かれたことなんかねえんだよな。
 俺の気持ちとしちゃ、早く機嫌を直して笑って欲しい。だがネサラにしたら、とっととこの場は出て行けってとこか?
 プライドだとか矜持だとか、お互い譲れねえもんがある。
 なにより、……こんな場面で出て行けるなら、最初からこいつに手は出してねえな。

「ティバーン、俺も着替えてから行く。だから先に行ってろ」
「いっしょに行こうぜ。着替える間ぐらい待つからよ。心配しなくても、着替える時は後ろを向く」
「そんな意味じゃない。落ち着いてから行くって言ってるんだ」
「わかってる」

 初めてネサラの目が俺を見た。
 無防備な視線が俺に向けられて、すぐに自分の目が赤いことを思い出したんだろう。あわててそらした視線が逆に色っぽくて困る。

「一人で泣くなよ。まして俺のせいだろうが」
「はン、俺がこんなことで泣くわけないだろ」
「そうだな。まあ俺が勝手にそんな気がしただけだ。ほら、着替えて飯を食おうぜ。俺は腹が減って死にそうだ。うっかりするとおまえを喰っちまうぞ?」

 おどけて言うと、やっと笑ったネサラが頷いて夜着のボタンに指をかけた。

「べつに見ていてもいい」
「あ?」

 着替えるんだな。約束通り背を向けようとしたところで、目を伏せたネサラに言われて俺は驚いた。

「女じゃないんだ。習慣でずっと気にしていたが、よく考えればべつに見られても減るわけじゃない」

 そう言ったネサラがカーテンを開けて、すっかり明けた空を眩しそうに見る。
 どんな心境の変化かはわからないが、そう言って一息に脱いだネサラの白い身体が露になった。
 いや、おまえの場合は減るだろ!
 もちろん下着はつけている。それでも、しなやかに引き締まったなだらかな身体の線と、吸い付きそうに滑らかな肌の白さに思わず俺の喉が鳴った。
 こう見ると腰はかなり細いな。けど肩から腕、胸元も貧弱じゃねえ。どこもよく鍛えてあって、俺が力を入れて抱いても壊れないだけの強靭さのある身体だった。
 ………やっぱり、抱きてえな。
 俺は男を抱いたことはねえし、こんなことがなけりゃこの先も興味を持つことさえなかっただろう。
 だが、こうして見て、初めてこいつを痛烈に欲しくなった。あの肌の味を知りたい。触って、産毛の感触を確かめたい。じわりと汗をかかせたら、どんなに美味いだろうな?
 我ながら獣と同じだ。
 俺の欲情が伝わったのか、一瞬目を見開いたネサラが俺を見て、すぐに表情を消しながら黒いシャツを羽織る。それから下穿き、黒い上着と。
 最後にネサラの背中に蒼い光沢のある漆黒の翼が現れて、いっそう色気が増した。身体のほとんどを隠してるくせに胸元だけ出してるのがいけねえんだよ。どうしても煽られちまう。
 今だけは胸元まできっちりと前を合わせて欲しいが、今さらなんだと言われそうだな。

「……待たせたな」
「いや、大丈夫だ」
「大丈夫じゃないだろ。あんた、いやしんぼなのに」

 仕上げにブーツを履いて歩いてきたネサラに笑うと、ネサラもいつものように皮肉っぽく笑って先に扉に手をかける。
 その無防備な背中を見て、俺はふと思いついた。いや、まさかとは思ったんだが。

「ネサラ」

 だからとっさに言っちまった。

「もしかしておまえ、まだ誰とも寝たことねえのか?」

 これじゃ意味がわかんねえか。怪訝そうに片眉を上げて振り向いた顔は、昨夜も俺と寝ただろうがって表情だ。

「ただ並んで寝ることじゃねえぞ。男でも女でも、子を作るようなことをする意味でだ」

 そこまで言った瞬間、ネサラの濃紺の目が丸くなって、遅れて耳まで赤くなった。
 答えなんか聞かなくてもわかる。ああ、そうか。だからか!

「悪かった。聞くようなことじゃねえな。行こう」

 黙りこんだネサラはなにも言わない。俺がその沈黙をどう解釈したかも訊かずに、おとなしく後をついてきた。
 ………参ったな。本気でニアルチのじいさんにぶん殴られそうだ。
 こんなこと、遊びでやるものだと思っていた。いや、ガキができる分女相手には遊びだけじゃ駄目なことはわかってるぜ?
 それでも、野郎同士だったら遊びでしかねえだろ?
 けど、違うな。遊びで済むのは割り切った者同士のことだ。
 物事には順序がある。俺はこういったことの順序は気にしねえが、鴉は……違うな。こいつは気にするタチなんじゃないのか?
 そりゃ応じねえはずだよ。第一知らねえんなら応じようがねえ。

「おや、今朝は下で食ってくれるのかね?」
「ああ。腹が減って死にそうだ。俺の分は多めに頼むぜ」
「よしきた。あんたはよく食うから作り甲斐があるな」

 宿の一階は四人がけの食卓が三つの小さな食堂になっている。俺が真ん中の出口側に座ると、ネサラは少し遅れて階段側に腰を下ろした。
 この三日の滞在ですっかり好みを覚えてくれた宿の主人は俺の皿には肉を多めに、ネサラの皿には肉よりもやや野菜を多めに盛り付けて出してくれた。
 いろんな調味料を使う複雑なベオクの料理は、食いなれると美味い。俺よりも味覚がベオク寄りのネサラはなおさらだろう。
 黙々と食べるネサラの機嫌は直ったようだが、ほんのり眦に残る血の気がどうにも堪らなくて俺はこの場から逃げ出したくなった。
 ……いや、ネサラのためにも逃げないと不味いだろ。
 他人の色恋沙汰は笑えるが、自分だと笑えねえな。当たり前か。
 そもそも色恋沙汰にもなってねえ。俺のは性欲そのものだからな。
 それでもどうにか踏みとどまって朝飯を終えて、俺はネサラと部屋に戻って真面目に仕事の話をすることにした。
 頭を切り替えりゃいいんだ。遂げてないままだからしょうがねえ。一度点いた火は燻ったままでも、刺激しなけりゃそのうち消える。

「じゃあ、その書類はガリアからまだ戻ってないんだな?」
「おう。なんでもスクリミルが直接持ってくるって張り切ってるらしいぜ」
「しょうのない王だな。あんたと同じだ」

 思った通り、仕事の話を続けるうちにすっかり調子を取り戻したネサラがいつもの通りの「鴉王」の顔になる。
 涼やかな森の気配の匂いだ。薄く薄荷の匂いも感じる。……違う。これは歯を磨く塩に入ったやつか?
 どちらにしろ、落ち着く匂いだぜ。やたら鼻が利くってのはいよいよ発情期が近い証拠だ。
 こんな時に悔しいが、寝た子を起こしたのは俺自身だからな。しょうがねえ。

「ネサラ」
「なんだ?」
「もちろん、グレイル傭兵団と合流してからの話だがな」

 ネサラの怜悧な視線が俺を見る。
 欲望と理性を戦わせる気ははじめからない。欲望が勝つからじゃねえぞ? この先の問題も同時に考えて言ったんだ。

「俺は一度、セリノスに戻るかも知れん」
「それは…その方が良いだろう。あんたは王なんだ。あんたがいなくちゃ民が安心できない」
「いや、そんな意味じゃねえよ。おまえの作った基盤もしっかりしてるし、それほど情けねえ連中じゃねえ。戦力のことなら今はニケもいてくれる。俺が言ってるのは、俺の身体のことだ」
「まさか、あんたまでどこか…!」

 冷静だったネサラの顔色が変わる。ああ、そうか。俺まで化身できなくなったんじゃないか心配したんだな。

「そうじゃねえ。そろそろなんだよ」
「え?」
「だから、あれだ。……発情期がな」

 くそ、いたたまれねえな…! なんで俺まで赤くならなきゃならねえんだ!?

「このままいっしょにいてそうなっちまったら、間違いなく止められねえ。力ずくでもおまえに乱暴な真似をする。情けねえが、俺はそういう男だ。今だって触るまいと思ってもおまえの顔を見たら忘れて触りたくなる。本当はおまえの状態が治るまで離れたくねえんだがな」

 ネサラはなにも言わなかった。ただ睫毛を伏せて、机の上に広げた覚書をぎこちなく畳んで鞄にしまいこむ。
 今はなにを考えてるんだろうな。なるべくなら軽蔑されたくはねえが、それは虫のいい話だろう。それだけのことを俺はやっちまった。
 ずいぶん長い沈黙の後で、ネサラは顔を上げた。いつも通りの表情だが、なんとなく戸惑いを感じるのは気のせいじゃねえだろうな。

「わかった。ここにはあんたを満足させられる女はいないし、たぶんしょうがないんだろう。大体、個人の問題だ。だからあんたの好きにしたらいい。ただ、ヤナフが大丈夫そうだったから心配していなかったが、もしかしたら俺のこの状態が伝染るものだとしたら困る。早いうちに離れた方がいいのかも知れない」
「そりゃ気にし過ぎだ。伝染るものなら、とっくに俺も同じ状態になってるさ」
「それは…そうかも知れないが」
「だから気にするな。まあ、これからも隙を見つけておまえに触るかも知れんが、嫌なら言え。なるべくおまえの意志を汲むようにするからな」」
「なるべくじゃ意味がないだろ」

 俺が笑って細い指先に口づけて言うと、ネサラも笑って肩を竦めた。
 とりあえず機嫌が直ったようでよかったぜ。
 さて、と立ち上がると、俺は昨夜ネサラが酒場の女に借りたショールと折りたたみナイフを持って窓を開けた。

「ティバーン、それは俺が」
「頭を冷やすのにちょうどいい。おまえの分もちゃんと礼を言ってくるぜ」

 返事を待たずに窓から出ると、まだなにか言いたそうなネサラに笑って窓を閉めて道に下りる。

「よォ、鷹の兄ちゃん! 黒い別嬪さんはまだ夢の中か?」
「朝飯食ってのんびりしてるぜ。昨夜はありがとうよ!」
「ははは、こっちこそ」

 道すがら話しかけてきたのは昨夜いっしょに飲んだうちの一人だ。寡黙なおっさんだと思ったら打ち解けると陽気で、手を振ってすれ違う顔にはもうラグズに対する嫌悪感はない。
 差別意識ってのは根深いもんだ。ここに派遣された連中がいい仕事をしたんだな。
 そう思うと俺も王の一人として誇らしかった。
 私情で国を出ちまったが、俺も立場を忘れず仕事をしねえといけねえな。ネサラに悪いことをしたとしみじみと思う。
 とりあえず、この反省を活かすことだ。

「悪いけど、酒場は夜からよ。…って、あら」
「邪魔するぜ。早い時間に悪ぃな」

 この時間は店の掃除なんだな。昨夜とは打って変わって地味な服を着た金髪の女に声を掛けると、俺が持つショールとナイフを見て来店の理由がわかったんだろう。
 化粧っ気がなくても色っぽい顔に笑顔を浮かべて「どうぞ」と中に誘ってくれた。

「そんな薄着で寒いでしょ…って、あなたたちは平気だったかしら?」
「いや、今はそれなりに寒いぜ。化身してりゃ関係ないがな」
「ふうん、そうなの」

 ものを返してすぐに帰るつもりだったんだが、戸口を閉めた女にカウンターの一席を勧められてそこに落ち着く。
 よく考えたら礼を言ってはいさよならってのは、ベオクだろうといい女を相手に失礼だからな。

「昨夜はありがとうよ。あいつからも礼を伝えてくれと頼まれている」
「ふふ、カラスの坊やが来てくれなかったのは淋しいわ。律儀そうな人だから期待したのに、……しょうがないってことかしら?」

 ミルクパンに葡萄酒を注ぎながら送られた青い流し目に視線を合わせて笑うと、女の期待に応える。ネサラがいたら思い切り苦い顔をしそうなことを。

「そりゃあ、つがいだからな。その辺りは想像に任せるさ」
「あら、さらりとかわされちゃったわ。ふふふ。はい、どうぞ。サービスよ」
「……いいのか?」
「飲みたい顔をしてるもの。どうぞ?」
 
 沸いた葡萄酒をグラスに注ぐと、女はそこにスプーンを放り込んで俺の前に置いた。横に置かれたのは蜂蜜とレモンだ。

「じゃあ、遠慮なく。あー…」
「ヘンリエッタよ。商売女の名前なんか気にしなくてもいいのに、ラグズの男は優しいのね」
「今まで訊かなかったことへの皮肉かよ。ありがとうな、ヘンリエッタ」
「どういたしまして」

 そう言って微笑んだ顔は優しい。派手で色っぽい容姿に鼻にかかった声が似合っていて、煽られて踊る男はさぞ多いだろうよ。
 香水もない方がいいな。この女のもともとの肌の匂いはどこか暖かい。ほとんどの女がそうだが、きつい香水で消すのはもったいない体臭だ。
 蜂蜜とレモンを入れた暖かい葡萄酒は意外なぐらい美味くて、ざらついていた喉から胸にゆっくりと染み込む。
 俺が飲んでる間に話でもあるのかと思ったが、違ったんだな。
 女――ヘンリエッタは楽しそうに鼻歌を歌いながらてきぱきと掃除を続ける。「あんたの当番なのか?」と訊くと、「夜に売れ残った花の仕事なのよ」と朗らかに笑った。
 こんな仕事も大変だな。
 ラグズには基本的に娼館はない。貞操観念は種族によって様々だが、唯一共通してるのは男も女も気に入らない相手には脚を開くことは絶対にないということだ。
 仕事にするには辛いことも多いだろう。ネサラが言うように仮に俺が使える避妊具があったとしても、金で買うような真似はしたくねえな。
 そんなことを言うと、きっと馬鹿にするなと怒られちまうだろうけどよ。

「どう? 飲み終わって?」
「おう、美味かった」
「冷えた身体を温めるにはそれが一番よ。昨夜は辛かったものね」
「あの虎本人より辛いヤツはいねえよ」

 そう答えると、ヘンリエッタはなにも言わずにまた笑ってさらりと俺の頬の傷を撫でる。
 誘うようなものじゃねえ。ガキのころにお袋にされたような手つきだ。
 ぽかんとしてる間にほうきを取ると、戸口を開けて俺を呼ぶ。

「またいつでもいらっしゃいな。飲んでくれるだけでも大歓迎よ」
「おう、機会があればな。ごちそうさん」
「坊やによろしくね」

 帰れってことか。……そうだな。帰ろう。
 ネサラがまたきっと余計な気を揉んでる。
 空になったグラスをカウンターに置くと、俺はほうきを握るヘンリエッタに笑いかけて酒場を出た。
 見上げた空はすっかり青い。気がつけば村人たちの視線に棘はなく、ただ旅人らしい連中だけが俺を見て驚いたりするが、昔のように半獣呼ばわりしていきなりケンカを売ってくるヤツらはいねえ。
 油断するのはよくないが、こうなるといつまでも俺だけムカついてるってわけにゃいかねえな。

「……ん?」

 出た時は窓からだったが、通行人が増えたからな。帰りは出入り口からにするかと地面に足をつけたままの俺の耳に、ふと聞き知った声が聞こえた。
 ベオクじゃまったく聞こえねえ距離だな。叫び声のように聞こえたが、逼迫した様子じゃねえ。声の主はグレイル傭兵団の重騎士、ガトリーだ。
 俺が先に出て四日目か…。ベオクにしちゃ早かったな。
 せっかくだ。リュシオンもいることだし、ネサラに言っていっしょに迎えに行くとするか。
 そう思ってちらりと宿の窓を見上げると、心配そうな顔で窓に近づいて辺りを伺うネサラがいた。
 ……俺を探してんだな。
 らしくねえ顔しやがって。素直なあいつの顔はいつでも感情豊かだ。ラフィエルたちが言った通りだな。
 じっとそんなネサラを見上げていると、まさか真下にいるとは思わなかったんだろう。俺を見つけたネサラは、さも自分は天気を見に来ただけだとでも言うように空を見上げて表情を元に戻した。
 ……ったく、そんなことをするから俺が煽られるんだがな。
 気が変わった。遠慮なく羽ばたくとちらちら俺を気にしていた旅人が焦って離れたが、俺は構わずに二階の窓に手を掛け、うんざり顔のネサラに言った。

「グレイル傭兵団が来たぜ。迎えに行かねえか?」
「早かったな。じゃあ、俺が行く。あんたは部屋に…うわッ」

 やれやれ、これも俺が王だからか?
 最後まで言わせずにネサラをさらうと、さすがに慣れたもんだ。翼をばたつかせながら慌てて俺の首に腕を回す。
 俺としちゃこのまま飛んだって良かったんだが、そんな俺たちを見つけた昨夜の男がまた一人冷やかすもんだから、すぐに解かれて逃げられちまったのが残念だった。
 やれやれ。力ずくで逃がさない手もあったんだが、俺も甘いな。
 そのまま先を急ぐネサラの後を追ってのんびりと飛んだ。
 ちょうど村から出た辺りで、今度はリュシオンの声が聞こえる。一瞬止まったネサラの耳にも届いたんだろう。黒い翼に蒼い光が浮かび、ネサラが速度を上げた。驚いたんだろうが、もしかしたら今は笑顔なんじゃないかと思うほど、その羽ばたきは軽やかだ。

「ネサラ! 無事か!?」
「当たり前だ。誰に言ってる?」

 村が見えて我慢できずに一人で先に来たらしいな。なだらかな坂を下った先、葉が落ちてほとんど裸になった林の向こうから、息を切らしたリュシオンが現れた。

「まさかおまえが来るなんて思わなかった。道中大丈夫だったか?」
「もちろんだとも。おまえに土産話もあるんだぞ。それより、怪我は大丈夫なのか?」

 人型でも淡く金色の光を帯びた真っ白なリュシオンと、蒼と黒のネサラが仲良く手を取り合って浮かぶ姿は、なかなか絵になる。見ていて和むのは、年長者の特権だな。
 後続はまだだ。やっぱりリュシオンだけ先に来たらしい。せっかちなヤツだぜ。

「あぁ、そんなものもうとっくに治ったさ」
「本当に? もう私をだますなよ、ネサラ」
「おいリュシオン……」

 ぱたぱたと忙しなく羽ばたいて高度を合わせながらネサラの両頬を包むと、リュシオンは雛にするように額を合わせて真剣な顔で言う。
 それからやっと俺に気づいたように俺を見て笑った。

「ティバーン、遅くなりました」

 見たところ顔色も良い。心配いらねえようだな。

「いや、思ったよりずいぶん早かったぜ。おまえたちも大丈夫だったか?」
「はい! アイクたちももう来てますよ」
「そうか。それならちょっくら挨拶してこよう」

 ネサラには睨まれたが、今さら気にしてもしょうがねえ。俺は睦まじい二人の頭を撫でて林の方へ飛ぶと、ようやく見えてきたベオクの英雄、アイクに向かって手を振った。



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